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こころろ身体の健康づくり
地域医療への道
その年の1月17日の朝6時過ぎ1本の電話が実の姉からありました。
それは、関西で大変な地震があったとのこと、母も無事であるとのことでした。
母は大阪の茨木に1人で住んでおり、姉も同じ茨木に住んでおりました。
もう、母に電話しても電話は通じず、テレビで阪神大震災のニュースを知るだけでした。当日関西医大でのアポイントがあったのですが、電話も通じず、交通機関もない状態でした。午後3時過ぎにやっと公衆電話から電話が通じ、アポイントの変更をお願いしました。テレビでみる震災は、あまりにも大きく、親戚の方も建物が壊れ、命に別状がないですが、建物の下敷きになったようでした。
会社でもこの震災は大きな衝撃を与え、心配していましたが、一方俗に言われる、隣りの火事は大きいほうが面白い。それを感じさせられるような会話も聞こえてきました。関西で生まれ関西で育ってきた私にとって、この震災に何のお手伝いもできず、そばにも居れない。今まで仕事人間として、会社の転勤命令によって、家族とともに引っ越しをし、学校の転校や住居の移転など、家族のことを何も考えなかった自分が急に申し訳ない気持ちになってきました。
そんな折、震災後に関西に出張したときに妻の弟が5時間も6時間もかけて私に会いに来て、ドラッグストアの展開を手伝って欲しいと口説きに来てくれました。
私の姉が母親の近くで母親をサポートしてくれているように、将来、親の面倒は実の娘が近くに居て、世話をするのが一番心が安らぎ、QOLにも良い事であるとの思いもありました。
この薬剤が申請され、認可が下りて、多くの方に使われる、その中で私の役割、自分の目的にあった仕事が出来るのだろうか、将来自分は何をしたいのか、何が出来るのだろうか、地域医療に貢献したい気持ちと、この薬剤を中心として自分がこの会社でどのように貢献していけるのか、今までほとんど顧みなかった家族のこと、そして父親がもし生きていれば、会社を辞めるなど絶対に反対するだろうとの思い、あまりにも多くの事を考えましたが、震災が僕の気持ちを決定させてくれました。
生きていること、自分、家族など原点に戻って考えて、この臨床試験をこの会社での仕事の区切りとして、以前から考えていた地域医療への貢献に向けたドラッグストアを手伝う事に自分の中で決めました。その時は震災から2ヶ月後、3月の終わりでした。
しかし、それはまだ誰にも言えない。このことが社内で知れると,更に混乱してしまいます。今は淡々と申請に向け仕事することである。そのように考え誰にも相談や、話もせず、伏せていました。
この薬剤を国内に導入して頂いた上司は薬品事業の最高責任者でしたが、1つの薬剤の開発が大きな人事にも影響するように思い、また今年大きな役員人事があるのではとの自分の思いで、6月の株主総会、その後の取締役会後に上司に報告しようと決めていました。それまで1人の大学の先輩にだけ報告しましたが、それ以外誰にも言わなかったことで、仕事も淡々と進み、何事もないように月日が過ぎて行きました。
そして7月になって、辞めることを上司に報告すると、今までとは打って変わっていろいろ口出ししていた上司たちも対応が変わるとともに、信頼していた上司からは辞めることを留まるよう引き留めを賜りました。
しかし自分の中ではもう決まっており、変わることがない、自分の人生をかけて一生お世話になると決めていた会社を退職する。あまりにも大きな事だけに自分の中で変わることのない判断として前に進んで行きました。
そのような判断でも、この薬剤が承認されることだけは自分にとって絶対でしたから、それまでどのように進めていくかが大変でした。
私の退職をしり、一緒に取り組んできたプロジェクトチームの全員が退職を希望してきました。結婚や地元へ帰るとのことで退職がやむを得ないと判断する部下もいましたが、承認まで残ってもらわなければ困る人もいました。またその中から営業に移動してプロジェクトリーダーになってもらえるように、など自分が去った後の事も考え行動しなければならなくなりました。また6月の役員会でやはり社長になられた以前の私の上司への報告は、私の直属上司からは出来ないので、自分で報告するように指示されました。
平成7年1月17日の震災から変化し出した自分の心、気持ち、3月に結論を出し、その後退職するまで、また退職できるまで1年かかり翌年の2月29日に退職することになりました。3月まで働けば申請まで担当できる、そして何より25年間という結婚でいえば銀婚式に当たるお勤めが出来る、また3月の1週目には賞与も頂ける、そんな貴重な1月を残して、4年に一度しか来ない2月29日に退職しました。
申請を目の前にして申請まで残らなかったことは、責任を全うしない自分への反省も込めていました。またうるう年の2月29日に退職することはこの日を思い出すのは4年に一度しかない、また3月1日は新しい会社の期のスタートの日でもありました。
明治製菓でお世話になって24年11ヶ月、2月29日ぎりぎりまで働いて、翌日3月1日朝7時半頃の新幹線で次お世話になる会社に向かい、12時前にその会社に出勤することができました。
それは、関西で大変な地震があったとのこと、母も無事であるとのことでした。
母は大阪の茨木に1人で住んでおり、姉も同じ茨木に住んでおりました。
もう、母に電話しても電話は通じず、テレビで阪神大震災のニュースを知るだけでした。当日関西医大でのアポイントがあったのですが、電話も通じず、交通機関もない状態でした。午後3時過ぎにやっと公衆電話から電話が通じ、アポイントの変更をお願いしました。テレビでみる震災は、あまりにも大きく、親戚の方も建物が壊れ、命に別状がないですが、建物の下敷きになったようでした。
会社でもこの震災は大きな衝撃を与え、心配していましたが、一方俗に言われる、隣りの火事は大きいほうが面白い。それを感じさせられるような会話も聞こえてきました。関西で生まれ関西で育ってきた私にとって、この震災に何のお手伝いもできず、そばにも居れない。今まで仕事人間として、会社の転勤命令によって、家族とともに引っ越しをし、学校の転校や住居の移転など、家族のことを何も考えなかった自分が急に申し訳ない気持ちになってきました。
そんな折、震災後に関西に出張したときに妻の弟が5時間も6時間もかけて私に会いに来て、ドラッグストアの展開を手伝って欲しいと口説きに来てくれました。
私の姉が母親の近くで母親をサポートしてくれているように、将来、親の面倒は実の娘が近くに居て、世話をするのが一番心が安らぎ、QOLにも良い事であるとの思いもありました。
この薬剤が申請され、認可が下りて、多くの方に使われる、その中で私の役割、自分の目的にあった仕事が出来るのだろうか、将来自分は何をしたいのか、何が出来るのだろうか、地域医療に貢献したい気持ちと、この薬剤を中心として自分がこの会社でどのように貢献していけるのか、今までほとんど顧みなかった家族のこと、そして父親がもし生きていれば、会社を辞めるなど絶対に反対するだろうとの思い、あまりにも多くの事を考えましたが、震災が僕の気持ちを決定させてくれました。
生きていること、自分、家族など原点に戻って考えて、この臨床試験をこの会社での仕事の区切りとして、以前から考えていた地域医療への貢献に向けたドラッグストアを手伝う事に自分の中で決めました。その時は震災から2ヶ月後、3月の終わりでした。
しかし、それはまだ誰にも言えない。このことが社内で知れると,更に混乱してしまいます。今は淡々と申請に向け仕事することである。そのように考え誰にも相談や、話もせず、伏せていました。
この薬剤を国内に導入して頂いた上司は薬品事業の最高責任者でしたが、1つの薬剤の開発が大きな人事にも影響するように思い、また今年大きな役員人事があるのではとの自分の思いで、6月の株主総会、その後の取締役会後に上司に報告しようと決めていました。それまで1人の大学の先輩にだけ報告しましたが、それ以外誰にも言わなかったことで、仕事も淡々と進み、何事もないように月日が過ぎて行きました。
そして7月になって、辞めることを上司に報告すると、今までとは打って変わっていろいろ口出ししていた上司たちも対応が変わるとともに、信頼していた上司からは辞めることを留まるよう引き留めを賜りました。
しかし自分の中ではもう決まっており、変わることがない、自分の人生をかけて一生お世話になると決めていた会社を退職する。あまりにも大きな事だけに自分の中で変わることのない判断として前に進んで行きました。
そのような判断でも、この薬剤が承認されることだけは自分にとって絶対でしたから、それまでどのように進めていくかが大変でした。
私の退職をしり、一緒に取り組んできたプロジェクトチームの全員が退職を希望してきました。結婚や地元へ帰るとのことで退職がやむを得ないと判断する部下もいましたが、承認まで残ってもらわなければ困る人もいました。またその中から営業に移動してプロジェクトリーダーになってもらえるように、など自分が去った後の事も考え行動しなければならなくなりました。また6月の役員会でやはり社長になられた以前の私の上司への報告は、私の直属上司からは出来ないので、自分で報告するように指示されました。
平成7年1月17日の震災から変化し出した自分の心、気持ち、3月に結論を出し、その後退職するまで、また退職できるまで1年かかり翌年の2月29日に退職することになりました。3月まで働けば申請まで担当できる、そして何より25年間という結婚でいえば銀婚式に当たるお勤めが出来る、また3月の1週目には賞与も頂ける、そんな貴重な1月を残して、4年に一度しか来ない2月29日に退職しました。
申請を目の前にして申請まで残らなかったことは、責任を全うしない自分への反省も込めていました。またうるう年の2月29日に退職することはこの日を思い出すのは4年に一度しかない、また3月1日は新しい会社の期のスタートの日でもありました。
明治製菓でお世話になって24年11ヶ月、2月29日ぎりぎりまで働いて、翌日3月1日朝7時半頃の新幹線で次お世話になる会社に向かい、12時前にその会社に出勤することができました。