シイ企画 > 波乱万丈な薬剤師人生
こころと身体の健康づくり
波乱万丈!学生生活
中学卒業がせまり、受験という人生で初めての大きな別れ道に立っていました。
公立高校の受験で、理科の問題で間違いを見つけ、それにこだわってしまったのもあるのでしょうか・・・
残念ながら受験に失敗しました。
しかし、幸いにも私立高校には入学でき、中学浪人をせずに済みました。
高校では理系進学クラスに入りましたが、成績は今一つ“パッ”としませんでした。
成績はさておき、高校生活自体はクラス長に指名されたり、それなりに楽しく過ごしました。
その高校の生物と化学の先生は以前、阪大の蛋白研で勉強しておられたとの事。
(A先生と呼びましょう)
A先生から蛋白質研究で高名な阪大の赤堀先生の話をお伺いしてから、私は赤堀先生に憧れをもつようになってゆきます。
そして、できれば赤堀先生の門下生となって、生命と化学の係わりについて勉強したい!生命と化学を究明したい!と強く思うようになったのです。
当時、私は自分の日々の考えなどを書くノートに「OUTER SPASE(アウタースペース)」というタイトルを入れていました。
「OUTER SPASE」
これは、「宇宙の外」という意味ですが、なんとなくそこに、私が求める真理があるように思えたからです。
そのノートには私が自分で考えた言葉、「LIFE CHEMISTORY(生命化学)」と記されています。
化学で生命を究明するという夢と、赤堀先生の下で勉強をするという強い意欲をこの言葉に込めて書いたのです。
そして、あっという間に高校生活も残りわずか、大学受験の時です。
化学はともかく、英語、国語は苦手で、社会に至っては、ほとんど興味を持てませんでした。
私は、これらの受験科目のある国立大学はあきらめる事にしました。
阪大に行って赤堀先生の下で勉強する!という思いもあきらめざるを得なかったので他の道を探します。
しかし、どうしても蛋白質の研究はやりたかったので、生命化学の勉強ができるところで、大学院に行ける公立の大学をピックアップ!
そして受験します。
名市大、岐阜薬大、三重県立大、姫路工大
そして、最終的に私が入学したのは岐阜薬大でした。
それまでは自宅通学だったのが、今度は下宿生活です。
すべてが自己責任での生活、ストレスと自由の相反する毎日・・・
私にとっては初めての経験です。
そんな生活の中でも、大学1回生、2回生の時に学園祭の幹事をやったのは強い思い出として残っています。
1回生の時には小田実氏(当時ベ平連)を講師に招き、2回生の時には五木寛之氏に特別講演をお願いしに金沢まで行きました。
残念ながらスケジュールが合わず五木寛之氏には出演してもらえなかったのですが、それが縁で愛読者と言う肩書きで、五木氏と一緒にTV(CBC)に出る事ができたのは嬉しかったです
大学では先輩達が生化学を「生物化学(バイオケミストリー)」と呼び、この言葉が行きかっていました。
私にとっては「バイオケミストリー」という言葉を生命化学(=LIFE CHEMISTRY)と言う神聖な言葉に捉えていたのが、一般的な言葉として、生化学という意味で語られる事に愕然としました。
当初、「自分はこのような安直に語られるバイオケミストリーを勉強するために大学に入ったのではない。
もっと神聖な生命化学を勉強するのだ!」と考えていましたが、アルバイト、遊び、クラブ活動・・・
日々の忙しい生活の中で、当初の強い意欲も消えていったのでした。
今から思えば学生の甘えだったのでしょう。
そんな甘えた生活の中、生命化学への思いは薄れ、次第に、当時華やかだった製薬会社の営業、プロパーを目指すようになって行きました。
公立高校の受験で、理科の問題で間違いを見つけ、それにこだわってしまったのもあるのでしょうか・・・
残念ながら受験に失敗しました。
しかし、幸いにも私立高校には入学でき、中学浪人をせずに済みました。
高校では理系進学クラスに入りましたが、成績は今一つ“パッ”としませんでした。
成績はさておき、高校生活自体はクラス長に指名されたり、それなりに楽しく過ごしました。
その高校の生物と化学の先生は以前、阪大の蛋白研で勉強しておられたとの事。
(A先生と呼びましょう)
A先生から蛋白質研究で高名な阪大の赤堀先生の話をお伺いしてから、私は赤堀先生に憧れをもつようになってゆきます。
そして、できれば赤堀先生の門下生となって、生命と化学の係わりについて勉強したい!生命と化学を究明したい!と強く思うようになったのです。
当時、私は自分の日々の考えなどを書くノートに「OUTER SPASE(アウタースペース)」というタイトルを入れていました。
「OUTER SPASE」
これは、「宇宙の外」という意味ですが、なんとなくそこに、私が求める真理があるように思えたからです。
そのノートには私が自分で考えた言葉、「LIFE CHEMISTORY(生命化学)」と記されています。
化学で生命を究明するという夢と、赤堀先生の下で勉強をするという強い意欲をこの言葉に込めて書いたのです。
そして、あっという間に高校生活も残りわずか、大学受験の時です。
化学はともかく、英語、国語は苦手で、社会に至っては、ほとんど興味を持てませんでした。
私は、これらの受験科目のある国立大学はあきらめる事にしました。
阪大に行って赤堀先生の下で勉強する!という思いもあきらめざるを得なかったので他の道を探します。
しかし、どうしても蛋白質の研究はやりたかったので、生命化学の勉強ができるところで、大学院に行ける公立の大学をピックアップ!
そして受験します。
名市大、岐阜薬大、三重県立大、姫路工大
そして、最終的に私が入学したのは岐阜薬大でした。
それまでは自宅通学だったのが、今度は下宿生活です。
すべてが自己責任での生活、ストレスと自由の相反する毎日・・・
私にとっては初めての経験です。
そんな生活の中でも、大学1回生、2回生の時に学園祭の幹事をやったのは強い思い出として残っています。
1回生の時には小田実氏(当時ベ平連)を講師に招き、2回生の時には五木寛之氏に特別講演をお願いしに金沢まで行きました。
残念ながらスケジュールが合わず五木寛之氏には出演してもらえなかったのですが、それが縁で愛読者と言う肩書きで、五木氏と一緒にTV(CBC)に出る事ができたのは嬉しかったです
大学では先輩達が生化学を「生物化学(バイオケミストリー)」と呼び、この言葉が行きかっていました。
私にとっては「バイオケミストリー」という言葉を生命化学(=LIFE CHEMISTRY)と言う神聖な言葉に捉えていたのが、一般的な言葉として、生化学という意味で語られる事に愕然としました。
当初、「自分はこのような安直に語られるバイオケミストリーを勉強するために大学に入ったのではない。
もっと神聖な生命化学を勉強するのだ!」と考えていましたが、アルバイト、遊び、クラブ活動・・・
日々の忙しい生活の中で、当初の強い意欲も消えていったのでした。
今から思えば学生の甘えだったのでしょう。
そんな甘えた生活の中、生命化学への思いは薄れ、次第に、当時華やかだった製薬会社の営業、プロパーを目指すようになって行きました。