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シイ企画 > 波乱万丈な薬剤師人生

波乱万丈! プロパー街道!4

私は神戸地区のエリアリーダーとなり、4人のチームリーダとして、阪神地区、明石地区との競争が良い刺激となりました。
やがて、全エリアでルート制からエリア制に変わり、私も本来のプロパー業務になってきました。

日々の仕事も、営業的業務から本来の薬剤の知識を生かした業務になってきて、大学病院を中心に、基幹病院、個人病院、開業医との連携や、学術的な知識、能力が要求されるようになり、薬剤師としての役割が急速に大きくなりました。
大学病院、基幹病院で使われる薬剤が、その医局を中心とした組織全体で使われる事が多く、それぞれの病院、医局の繋がりが私の仕事にとって大きな役割を担っていました。

当時、小説「白い巨塔」がベストセラーとなり、大学病院、医局の仕組みが取りざたされる時期でした。
また、薬剤師のプロパーは名前ばかりで、文系卒のプロパーの方が積極的に仕事し成績を出す、などと陰口が囁かれる事も多くありました。

そんな事もあったせいでしょうか、大学基幹病院担当プロパーと個人病院開業医担当プロパーが大きく分類されるようになりました。

私は当時、神戸地区エリアリーダーとして個人病院、開業医を中心に担当していましたが支店長より、「これからは大学病院中心になるから大学病院を担当するように」、との命令で京都の病院課に転勤になりました。
支店長から大学担当との命令を受けていましたが現実はまったく違っていました。
京都営業所二課(病院課)に転勤になり、担当先は舞鶴、福知山、丹後半島と月曜日に出て金曜日に帰ってくる、1週間をサイクルとした出張中心の仕事でした。

大学で担当したのは京都大学医学部、胸部疾患研究所の付属病院でした。
そして先輩から担当の引継ぎを受けましたが、担当施設でも一部の診療科や先生との引継ぎしかなく、また京大胸部研は建前だけですぐに担当からはずれ、夢を持って京都へ転勤してきた私にとって大きなギャップを感じました。
そして担当として、自身で施設訪問しだすと、現実は厳しく不十分な引継ぎもあって、思いとはあまりにもギャップが大きく、入社して5年間、常に人よりも少しでも前を走ってきたつもりであった私にとっては自分の人生の岐路に立ったような気持ちになりました。

京都は閉鎖的と言われますが、営業所内でも何かよそ者扱いのように感じ、金曜日に営業所に戻ることが苦痛な日々もありました。
理想と現実のギャップの大きさに悩んだとき、入社して2,3年で退社して行く同僚を見て、私は30歳までは今の仕事で頑張るんだと誓ったことを肝に銘じ、今負けたら自分に負けることになる、同じやめるにしても自分が納得できるようにやるだけのことはやってから決めようと決心しました。

そう決めた時から、気持ちが楽になって前向きに考えられるようになりました、神戸で三星堂担当になり営業から相手にされなかったときがありました。
この時に悩んでいる私の目標となりまた助けてくださったチバガイギーのプロパーにめぐり逢えたように、京都で不十分な引継ぎで何をして良いか迷い悩んでいるときに持田製薬の素晴しいプロパーに巡り会えました。

彼は私より3年先輩で京都北部を担当して長く、すべての施設をくまなく廻り多くの先生から支持され慕われてもいました。
その方とは同じ北部中心の取引卸しが一緒で、私が困っている時に毎日同行させて頂き病院プロパーの仕事とは何かを教えていただきました。
その方は常宿としていた旅館のお嬢さんを奥様にもらわれ、地域にどっぷりと浸かって仕事をされ、私もその旅館を常宿にさせて頂き、寝ているときを除いて常に傍で勉強させてもらい、また悩んだ時に助けていただきました。

社会人とは、またプロパーの仕事とは何か、私は常に社内でなく卸のセールスや幹部の方、また競合する先輩プロパー、お医者様から学ぶことが出来、大きな視野で物事を判断できる、またすることの大切さを学びました。

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